刀 津田近江守助直
(つだおうみのかみすけなお)
貞享三歳二月日(一六八六年)
Katana:TsudaOuminokamiSukenao
新刀・摂津 江戸前期 良業物
特別保存刀剣鑑定書付き
刃長:69.7(二尺三寸強) 反り:1.5 元幅:3.21
先幅:2.16 元幅:0.79 先幅:0.56 穴1
【コメント】
津田近江守助直の丸津田銘、貞享年紀入り、同工壮年円熟期に於ける濤瀾風大互の目乱れの会心作、地刃の出来、冴えは師に勝るとも劣らない優品です。
助直は寛永十六年に近江国高木に生まれ、通称を孫太郎と言い、後に摂津へ出て、そぼろ助廣の晩年期に門下に入り、二歳年上の二代助廣と共に初代を助け、二代が独立してからはその下で学び、後にその妹婿になったと伝えます。自らが独立してからは、一旦高木へ帰りましたが、天和二年三月に二代助廣急逝すると、摂津へ戻り、以後常住しました。寛文九年初め頃に『近江大掾』、同年夏頃に『近江守』へ転じました。同工の年紀作に見る活躍期は、寛文八年三月から元禄六年二月まで、寛文八年は、同工三十歳に当たる年で、それまで自身銘の作が見られないことは、この前後に独立、それ以前は、初二代の協力者としての修行期間であったと考えられます。没年は不明ですが、最終年紀の元禄六年は、五十五歳に当たる年で、それ以後間もなくして没したとされます。
銘振りは、最初『近江国住助直』、受領後は『近江大掾藤原助直』、『近江守藤原助直』、『近江守助直』、『近江守高木住助直』と切ります。前述したように、天和二年三月に、二代助廣が急逝した後の同年八月からは、『津田近江守助直』とのみ切ります。師助廣がそうであったように、津田姓を冠するのは助廣一門の棟梁の証、つまりはこの時より、名実共に助直が一門の棟梁になったことを証明しています。またこれ以降『高木住』と添えた銘が見られないことは、これまで摂津と高木を往来していた助直が、摂津に定住したことを意味しており、 銘振りの変遷として、大変重要なポイントです。銘字体の変遷は、前期中期頃まで目まぐるしく、一定の法則を以て捉えるのは難しいですが、『直』の字の『目』の中を『〒』の如く切るのは、天和二年二月から、津田姓を常用し始める同年八月からは、助廣と同様、丸津田風の書体となり、字体も安定してきます。
作風は師伝の濤瀾乱れを最も良く継承し、互の目乱れ、大湾れに互の目交じり、湾れ調、直刃もあります。どれも上手く、師に迫る作も多く見られます。四十代に入って津田姓を冠するようになってからが、同工の円熟期であり、それは作品に於いても顕著に現れており、一門の棟梁としての自覚、自負がそうさせたものと思われます。
本作は同工四十八歳の頃の作、貞享三年の年紀が入った、いわゆる丸津田銘の優品で、寸法も定寸あり、身幅重ねカチッとして、如何にも地刃が健全です。
鎬に掛かる程華やかな濤瀾風の大互の目乱れは、刃縁の沸匂い深く、焼きの谷に煌めく大粒の沸、刃中に砂流し、金筋を配し、細美な地沸を一面に敷き詰めた小板目肌は、細やかな地景を配し、地色明るく、一点の緩みも見せていません。前述したように、この頃の作は全てに於いて充実していたためか、とにかく名作が多く、本作も特別保存レベルの刀としては、最高水準に達していると鑑せられます。偉大なる師の跡を受け、一派の屋台骨を支える立場という重責を担った助直が、その類い希なる才能を存分に発揮した名品、強くお薦め致します。